ドラマ「イ・サン」 ソンヨンのモデル宜嬪成氏と側室たち

ドラマ「イ・サン」では正祖としての業績もそうですが、幼馴染みソンヨンとの恋愛も興味を引くところです。ソンヨンは正祖の側室として実在した宜嬪成氏(ウィビンソン氏)をモデルにしています。ドラマ中の人物設定とは違いますが、女官出身というのは事実です。

宜嬪成氏も含めて正祖にはどのような側室がいたのかドラマと比較しながらみてみましょう。

 

 

○元嬪洪氏

元嬪洪氏(ウォンビンホン氏)1766年~1779年

正祖の腹心の臣下であった洪國栄(ホン・グギョン)の妹。1778年兄の推挙により12才で後宮入りする。この時、異例の待遇で側室になった当初より最高位である正一品の“嬪(ヒン)”の位を与えられる。

しかし不幸にも側室になって1年後の1779年に病死する。一説では兄の洪國栄はこの死に疑念を抱き、王妃(孝懿王后金氏)が毒を盛ったのではないかと考えていたという話がある。

史実的な根拠はない。また死後、兄の画策により正祖の異母弟の恩彦君の長男常渓君を養子としている。

 

○和嬪尹氏

和嬪尹氏(ファビンユン氏)1765年~1824年

元嬪洪氏が亡くなった後の1780年に後宮入り。ドラマ「イ・サン」の中ではソンヨンの側室問題と前後して登場します。

それを思わす会話があります。恵慶宮洪氏がソンヨンの後宮入りを認めず王室の礼法にのっとって側室を迎えいれる云々、という内容です。この時に恵慶宮洪氏によって選ばれたのがこの方ではないかと思われます。

1781年に女の子を出産するが2歳で亡くなる。その後の記録はありません。正祖の寵愛が後の側室に移ったものと考えられます。

 

宜嬪成氏

宜嬪成氏(ウィビンソン氏)1753年~1786年

この和嬪尹氏の女官をしていたとされるのがソンヨンこと宜嬪成氏です。

1782年に正祖の長男を出産したため、正三品昭容(ソヨン)の位を受けて側室となる。翌年2月に“嬪”となり、息子は1784年に正式に文孝世子となる。これと同じ年に娘が誕生するが1歳にならずして早逝、1786年には文孝世子もはしかで亡くしている。同年、3人目の子を出産予定だったが11月14日(旧暦9月14日)に出産前に突然死亡した。詳しい死因はわかりません。

ドラマ「イ・サン」の中では元嬪洪氏の後に後宮入りしたのが宜嬪成氏のようになっていますが、史実としての順番は和嬪尹氏が早くその女官であった成氏が正祖の長男を生んだため後宮入りしたというのが正しいでしょう。

側室のなかで女官出身の側室は彼女だけです。ドラマではこの経歴から「トンイ」の淑嬪崔氏(スクビンチェ氏)と関係を持たせてあります。

 

○綏嬪朴氏

綏嬪朴氏(スビンパク氏)1770年~1822年

最終的に次期国王純祖(第23代)の生母がこの方です。

17歳の時の1787年に揀擇(カンテク)によって後宮入りし、1790年に次男(後の純祖)を生んでいる。その後1793年淑善翁主(オンジュ:側室から生まれた女の子)が生まれている。この時の側室という立場はかなり微妙な重圧のある立場だったことが想像できる。

この時王室には先代英祖の継妃貞純大王妃、正祖の父で死に追いやられた思悼世子の正室恵慶宮洪氏、正祖の孝懿王后金氏と上に3人もの女性がいただけでなく跡継ぎとなる子供もいなかった。そのためか“賢嬪”と呼ばれるほど慎重で礼儀正しく、質素であったという。

息子の世子に取り入るために官僚たちが賄賂を送ろうとしたが、受け取りを拒否し逆に告発するほどだった。王室の女性たちを敬い息子が世子になった後も、もめることもなかったという。息子が王位を継いだあとも亡くなるまで穏やかな生活ができたという。

 

こんな記事も読まれています



サブコンテンツ

このページの先頭へ