李氏朝鮮時代の王宮(昌徳宮、昌慶宮、慶煕宮)

5つある王宮のうち李氏朝鮮が始まって以来最も長く正宮として利用されたのが昌徳宮です。またそれぞれの離宮や王宮内の建物にもそれぞれの役割や縁の人物がいてその当時の状況に思いをはせるのもまたよいものです。

 

 

3.昌徳宮(チャンドックン/창덕궁)

正宮である景福宮離宮として1405年に第3代太宗によって創建された。約500年の李氏朝鮮王朝の歴史の中でいちばん長く正宮として使用された。太宗は王位につくために異母兄弟を殺害したため正式な王宮である景福宮を忌まわしいところと考え離宮としてこの昌徳宮を建てた。当時の王族は権力を誇示するために離宮とはいえかなり大規模な見栄えのする宮殿をつくったとされている。初代太祖は晩年をこの昌徳宮で過ごし、この宮で亡くなった。

第9代成宗(在位1469年~1494年)が正宮として利用した。1592年の文禄の役のの時、日本軍が首都に迫る中、第14代宣祖一行が漢城から逃げると治安が乱れると、豊臣軍の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり、景福宮や昌徳宮、付属する後苑などと焼失した。その後1615年に第15代光海君が再建し昌徳宮に移り住んで以降、270年間も正宮として使用された。

王朝末期の1868年に本来の正宮である景福宮が再建されると、昌徳宮は再び離宮として使用された。1907年に純宗が大韓帝国の皇帝として即位すると再び正宮として使用され1910年の日韓併合後も李王となった純宗の住まいとなった。正門にあたる「敦化門」は大韓民国で現存する最古の門といわれる。また敦化門をくぐった先にある錦川橋は大韓民国最古の橋といわれる。

敦化門_昌徳宮

儀式の執り行われた仁政殿、国王が執務をしていた宣政殿、王妃の寝殿の大造殿など13棟の木造建築物が現存している。宮殿の北に広がる李氏朝鮮時代の王朝庭園後苑は別名“秘苑”といわれ王室に嫁いだ王妃は外に出ることができなかったため癒しの場として、また王族の憩いの場として人口の池や畑等などが造られた。ユネスコの世界遺産にも登録されている。また5つある王宮の中で当時の面影をいちばん残しているとされ歴史ドラマの参考にもされている。

○正殿:仁政殿(インジョンジョン)

○便殿:宣政殿(ソンジョンジョン)

○内殿:熙政堂(ヒジョンダン)・・王の寝殿/大造殿(テジョンジョン)・・王妃の寝殿

 

4.昌慶宮(チャンギョングン/창경궁)

李氏朝鮮王朝の聖君として名高い第4代世宗が父太宗へ贈るために1428年に建てた寿康宮を第9代成宗が改修して1483年に完成させた別宮。当時成宗の住んでいた昌徳宮が手狭になり、王の祖母、生母、養母の住居として建てられた。やはり文禄の役で焼失するが、1616年に再建され昌徳宮と並ぶ王宮として使用された。 その中の1つ迎春軒(ヨンチュノン)を正祖は居所としていた。

○正殿:明政殿(ミョンジョンジョン)

○便殿:文政殿(ムンジョンジョン)

内殿:歓慶殿(ファンギョンジョン)・・王の寝殿/通明殿(トミョンジョン)・・王妃の寝殿

※他にも王妃の居所としてつくられた建物があり景春殿は後の正祖となるサンが生まれたところ。

 

5.慶煕宮(キョンヒグン/경희궁)

慶煕宮は第16代仁祖の実父である定遠君の潜邸(正統でない他の方法や事情によって王に就いた人が王位に就く前に住んでいた家)だったが、王気が立ちこめるとの噂を聞き、1616年に第15代光海君がこの土地を奪い宮廷を建てたともいわれる。その気を発しているといわれる“瑞巌(ソアム)”という岩が残されている。当時は100以上の建物を要する壮大な宮殿とされていたが、1829年に焼失。その後再建されるが植民地時代に移築されたり取り壊されて建物はなくなった。

第21代英祖は晩年はこの王宮で過ごしていたという。また第22代正祖(イ・サン)が好んだ王宮で1776年ここの崇政門にて即位した。一時こちらで執務を行っていたが王宮の警備が万全にできない構造から、1777年に正祖は命を狙われることとなり警備の堅い昌徳宮へ移ることになった。

※ドラマでも利用されることがありユチョンが主役の「屋根部屋のプリンス」の撮影も行われた場所。

○崇政殿(スンジョンジョン)

○便殿:資政殿(チャジョンジョン)

>>景福宮、徳寿宮

 

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