李氏朝鮮の党派の成り立ち(勲旧派 vs 士林派)

李氏朝鮮の建国以来、政治の中心であり、絶対的な権力を持ったのは言うまでもなく王です。

しかし王は王位こそ継げる完全な世襲ではありましたが、その背後で実際に王を動かしているのが朝廷であり外戚と呼ばれる王妃を輩出する有力な両班でした。この構図は李氏朝鮮が終わるまで脈々と受け継がれています。

まあそれがあるから、ドラマの題材にもなるという見方もできますが。。。その関係が党派とからむとややこしいです。党派は時代とともに主流の考えや構成図が変化しています。政治を知る上でも欠かすことのできない存在です。

また李氏朝鮮の建国以来、儒教の影響もあり党派の対立が顕著になります。

もともとの成り立ちからみてみます。

 

 

王や政治を動かす党派

○勲旧派(フングパ)훈구파)

李氏朝鮮王朝の建国のときの功臣(功績のあった臣下)は「勲旧派」とよばれ、初期より中央朝廷での基盤と勢力を持っていた。

勲旧派はもともと中央の両班(李氏朝鮮の支配階級)が多く李氏王朝の王室に近い家柄だったため、王の外戚(王室と婚姻関係のある人々)となることでその地位や権力を強固なものにしていった。

その後、第7代世祖が王位を譲位されるときに功績のあった者たちが中核をなすようになり、その筆頭が韓明澮(ハン・ミョンヘ한명회)である。

世祖が王になるきっかけとなった癸酉靖難(ケユジョンナン계유정난)を画策した人物で、その後功臣として権力を掌握。集賢殿に集められた士林派(六死臣)による端宗(第6代王。世祖に王位を譲位した。)復位の動きを制圧し処刑にまで至らしめた。

世祖はこれら功臣を多く登用し中央政権を打ち立てた。第8代睿宗、第9代成宗の王妃にそれぞれ娘を嫁がせ、成宗の即位に尽力したのも彼だった。

しかし第9代成宗は9年間の睡簾政治の後は王道政治(儒教を基本とする政治)を貫き、士林派の官職への登用を積極的に行ったため朝廷における勢力は一時衰えた。

その後、第10代燕山君のときの士林派の大粛清(1498年戌午士禍ムオサファ)によって地位を復活させたが、燕山君の生母、廃妃ユン氏の死に関わった(燕山君が暴君になるきっかけ)として士林派とともに1504年に粛清されている。

この時すでに1487年に韓明澮は死亡していたが、墓を掘り起こされ遺体を切り刻まれるという仕打ちを受けた。

党派の要を失ったころから勲旧派の勢力は縮小していったとの見方が多い。

 

○士林派(サムリンパ 사림파)

もともと地方には新羅高麗からの両班が多く、仏教や儒教を熱心に学ぶ者が多かった。

その中で高麗末・李朝初期に朱子学者の大家といわれる鄭夢周정몽주(チョン・モンジュ)、吉再、金叔茲らは高麗王朝の中で儒教に基づく政治をとなえる改革穏健派だった。

しかし高麗王朝打倒を掲げる急進派が李氏朝鮮を樹立すると穏健派の取り込みをはかろうとしたが、『忠臣二君に仕えず』として高麗王朝への節義を守り,新王朝(李朝)に仕官しなかった。そのため鄭夢周は李成桂の子、李芳遠(のちの太宗)に殺され、吉再・金叔茲は山林に逃れて弟子の養成に専念し,朱子学を発達させた。

これら朱子学を修めた弟子たちを広義で「士林派」とよび党派の中核となる。政治的思想や政権の立場の相違から李朝初期には官界へ出て行く者はいなかった。その後第4代世宗のころより地方の官僚になる者も現れた。世

宗の頃に設置された「集賢殿」には儒学者の進士(科挙に合格した者)が多く集められ王直属の研究施設となり、次第に中央に進出するようになる。世宗によって集められた進士たちの協力によって「訓民正音(ハングル)」が作られた(世宗が作り、それを広めたのが進士という見方もある。)ことからもわかるように徐々に士林派の勢力が拡大していく。

中央の官職につくことが多くなった士林派は次第にその発言力が増し、政策決定をも左右するようになる。第9代成宗の時代には、金叔茲の息子の金宗直が中核となり、中央の要職(三司:司諫院・司憲府・弘文館)に自分の弟子たちをつけ、基盤を固めた。しかし第10代燕山君の時代には逆に戌午士禍の大粛清によってかなりの者が流刑となっている。

 

時代の流れと党派

第9代成宗のころと第10代燕山君のころが勲旧派と士林派の対立が激しかった。

その後政権運営の中で勲旧派と士林派は時の王に利用されお互いに制圧を繰り返していった。しかし第14代宣祖は朱子学を奨励し親政を行うために、当時勲旧派に後塵を拝していた士林派を積極的に官職に登用すると、勲旧派は長年の間に功臣としての既得特権も失われ士林派勢力にのまれるかたちで自然消滅していった。

かわって1567年以降、朝廷の中心となった士林派は内部で分裂を繰り返していく。

1575年人事権を握る官職をめぐり金孝元(キム・ヒョウォン)と沈義謙(シム・ウィギョム)が対立し、士林派は東人派(トインパ)と西人派(ソインパ)に分裂した。その後も李氏朝鮮後期に至るまで分裂と対立を繰り返している。>>> 後期の党派

 

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