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中国ドラマ「璎珞/エイラク」のあらすじをモデルの3皇后から見る

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海外好きなヤングマダムです。 韓流・華流/中国ドラマからあらゆる流行をキャッチする、 アジアウォッチャーを自負しています。

日本では「女版半澤直人」と称されることが多く、これまでの宮廷ドラマにはない主人公エイラクの行動派復讐劇とラブストーリーが痛快でおもしろいと大ヒット。

2018年の動画再生回数180億回を記録し、中国で社会現象を起こしたドラマです。あまりのヒットに一時動画配信がストップされることに、、。

同年には同じ乾隆帝時代の継皇后(後に詳しく解説)を主人公にした「如懿伝(にょいでん)」が放送され、話題になっています。

時代劇はやたら登場人物が多く、その人物関係や勢力図もわからなくなってしまいがちですが、ほとんどの宮廷ドラマは史実をもとにフィクションとなっているため、主要人物をおさえておけばストーリー展開(あらすじ)はつかめます。

(中国政府は時代劇、特に宮廷ドラマのフィクションが過激という理由で、2018年からこのようなドラマの制作・放送を禁じている。)

>>> 詳しくは「中国時代劇ドラマの最新情報」で

ドラマ「璎珞/エイラク」のヒロインのモデルとなった令皇貴妃と関わりのあった2人の皇后の歴史を見ていきます。

ちなみに璎珞(エイラク)という名前はフィクションです。この時代、高貴な女性を名前で呼ぶことはなく、記録もありません。

 

ドラマ「璎珞(エイラク)」の時代背景

乾隆帝(愛新覚羅弘暦)在位1735年~1796年=清朝で最も長い

清朝の第6代皇帝、雍正帝の四男(父:雍正帝 母:熹貴妃鈕祜禄氏)

1711年9月25日生-1799年2月7日没(享年88歳)

元号が乾隆だったため乾隆帝と呼ばれることが多い。
この時代の日本は江戸時代徳川吉宗、朝鮮は朝鮮王朝の英祖の時代。

ドラマでは、ニエ・ユエンが演じている。

乾隆帝の3人の皇后の史実とは?

乾隆帝の3人の皇后について解説している中国の番組によると、それぞれの皇后の評価は、

  1. 孝賢純皇后:尊敬される皇后
  2. 継皇后:死んでも恨まれる皇后
  3. 孝儀純皇后:最も寵愛を勝ち得た皇后

となっています。詳しい人物像については、それぞれの歴史とエピソードでわかります。

孝賢純皇后(孝贤纯皇后富察氏)

1712年3月28日生-1748年4月8日没(享年36歳)
満州八旗(清時代の満州族の身分制度)のうちの富察一族(フチャ)出身。乾隆帝の正室。

1727年に父・雍正帝の四男の弘暦時代に嫡福晋(正室)となる。

1735年に弘暦が乾隆帝と即位すると皇后になる。

4人の子ども(2男2女)に恵まれますが、残念ながら皇子は皆、早世(幼くして亡くなる)している。
・1728年-1730年長女
・1730年-1738年二男皇太子永璉
・1731年-1792年三女固倫和敬公主
・1746年-1747年七男永琮

孝賢純皇后は名家出身でありながら質素で誠実、美徳を備えていたと言われている。乾隆帝が疥癬(かいせん:伝染性の皮膚病)にかかった時、100日間看病し続けたという。(このエピソードは「璎珞」のドラマにあり)

金銀を好まず、髪飾りはベルベットで作った造花だったという。また衣装の装飾も金糸や銀糸の代わりに鹿の毛を金糸に見立てて付けていた。(このエピソードもドラマに盛り込まれている)

また周の時代から続く養蚕が途絶えていたものを復元させ、重要な儀式としてとりおこなった。

誰からも尊敬される孝賢純皇后でしたが、七男の死後、1748年乾隆帝と出かけた視察の途中、病により亡くなる。

乾隆帝は孝賢純皇后の死を大変悲しんだと言われ、12日間の喪に服し毎日お酒を捧げた。また葬儀は先代の明朝の皇后の葬儀に則って行った。また生前、皇后の住む長春宮には誰も住まわせることはなく、皇后を偲んでいた。

ドラマではチン・ランが演じている。またドラマに出てくるシュウ・カイが演じるイケメンの傅恒(ふこう)は実弟。

ドラマを理解する清の皇后と名まえ

孝賢純皇后は略式の諡号(死後送る名前)で、正式なのもは20字前後あります。規則は「孝」+「皇后本人への諡が一文字」+「夫である皇帝の諡が一字」+皇后となります。皇后本人への諡は生前の人柄/評価を表すことが多いです。

ちなみに乾隆帝の諡号は「純帝」なので、乾隆帝のすべての皇后に「純」が付きます。

継皇后(輝發那拉氏)

1718年3月11日生-1766年8月19日没(享年49歳)
満州八旗(清時代の満州族の支配身分)のうちの輝發那拉一族(ホイファナラ)出身。以前は烏拉那拉(ウラナラ)氏と呼ばれていましたが、最近の研究では輝發那拉氏が有力となっている。

孝賢純皇后が1748年に亡くなると、その後に2番目の皇后となった。

1734年に八旗選秀(皇帝の嬪妃を選ぶ制度)で弘暦の側福晋(側室)となる。
1735年に弘暦が乾隆帝と即位すると嫻妃(かんひ)になる。(18歳)
1737年嫻妃として正式に冊封される。(20歳)
1745年嫻貴妃になる。(28歳)
1748年皇后となる。(33歳)

3人(2男1女)の子どもに恵まれている。
・1752年6月7日-1776年3月17日十二男貝勒(ベイレ:爵位)永璂
・1753年7月23日-1755年6月1日五女
・1756年1月22日-1757年9月7日十三男永璟

継皇后は歴代皇后の中で唯一、諡号(死後送る名前)のない皇后のため孝賢純皇后(前皇后)を継ぐ皇后のため継皇后と呼ばれている。

これは断髪して乾隆帝の逆鱗に触れたため廃位になったもので、今日までなぜそのような行動をしたのか最大のミステリーとなっている。

満州族の習慣では「髪を切る」ことは皇帝、皇后が亡くなった時だけとされており、そのことがない時に断髪をした継皇后は、皇帝を呪詛しているものとみなされた。

1765年乾隆帝の江南視察に同行した継皇后は、夕食に姿を見せず翌朝、断髪をして現れた。突然のことで誰もその兆候を知る者はいなかったとされる。激怒した乾隆帝は北京に送り返し、冷宮入りとなった。

断髪の理由は今もわからず、諸説あるとされる。ウイグル出身の容妃のために宮殿を作ろうとした(香妃伝説)乾隆帝に抗議したという説や、令貴妃(璎珞のモデル)の皇貴妃への格上げに抗議したという説がありますが、どれも決定的ではない。

1766年に幽閉されていた翊坤宮で亡くなる。

葬儀は格下げの皇貴妃(側室)待遇で行われ、他者が行う弔いの参拝を禁じたほどだった。
通常皇后は皇帝の裕陵に葬られるが、側室の純恵皇貴妃の園寝に埋葬され、諡号もつけられていない。

また皇帝や皇后の棺は楠で作られるが、それには値しないとして嬪妃に使う杉で作られた。死後も皇后には値しないという、乾隆帝の思いが現れている。

ドラマではこの断髪事件は「出家」というストーリーとして描かれている。

この継皇后を主役にしたドラマが同年2018年に放送された「如懿伝(にょいでん)」となっているので必見。

ドラマを理解する清の後宮の身分・順列

清の後宮において女性の位を表す呼び方が多く出てきます。側室が多いため、よくわからなくなるので呼び方を知っていると、後宮の勢力図が見えてきます。
身分の上位から呼び方と定員を見てみます。

皇后(1名)→皇貴妃(1名)→貴妃(2名)→妃(4名)→嬪(6名)→貴人(定員なし)→常在→答応

①皇后:定員1名
皇帝の正室。清では皇后になれるのは満州族出身のみです。満州八旗から選ばれます。皇帝と皇后は常に対となる存在のため皇后が亡くなると次の皇后を立后します。
皇后は出身一族の姓で呼ばれます。

皇后は満州族のみですが、実際には漢族からもなっています。ドラマの主人公璎珞は漢族出身です。裏技として姓に「佳」をつけて満州族の姓のようにします。璎珞の姓は魏佳氏(ウェイギャ氏)となっています。

さらに所属する八旗の格を上げることで、皇后としての身分を与えることになります。

②皇貴妃:定員1名
皇帝の側室1位。皇后と貴妃の間として臨時的な位として付けられることが多い地位です。

皇后の後継となる時やその候補者が名乗ることができます。ただすべての皇貴妃が皇后になるわけではありません。

また特に寵愛を受けた側室が死後に送られることが多いです。

③貴妃:定員2名
皇帝の側室2位。上記の皇貴妃が臨時の位なので、事実上側室ではいちばん高い位になります。乾隆帝の生母は熹貴妃と呼ばれていました。

④妃:定員4名
皇帝の側室3位。満州八旗から選ばれる側室はこの位から昇格していきます。

妃の前には漢字1文字の称号が必ずつけられます。その側室の人柄を表す文字が多く、位が上がっても引き継いでいきます。同じ時代で文字が被ることはありません。

ドラマを理解する後宮・宮女への道

ドラマの中ではよく「選秀女」という場面が登場します。

一般に選秀女は皇帝や宗室(皇族)の妻妾選びのことが多いですが、実際には戸部(中央政治機関六部の1つ。戸籍や財政を担う)主催の八旗選秀といわれる妻妾選びと、内務府主催の宮女(皇宮や王府で働く奴婢)選びがあります。

璎珞(エイラク)は史実では、内務府選秀で選ばれた宮女です。

孝儀純皇后(魏佳氏):追贈

1727年10月23日生-1775年2月28日没(享年47歳)
もともとは令懿皇貴妃(令皇貴妃)だったが、十五男の永琰が第7代嘉慶帝となったため、死後に皇后を追贈されている。

乾隆帝より16歳も若く、側室になった詳しい経緯は記録されていない。内務府選秀(宮廷あるいは王府で働く宮女選び)で宮廷入りしたことと、乾隆帝時代の10年間、魏貴人と呼ばれていたことがわかっている。

また入宮後、教育のために孝賢純皇后の元に送られたことが記録されており、このことがドラマの中の前半部分のストーリーになっている。(清では皇后の元で働く宮女を“貴人“と呼んでいたようです。)

1745年に嬪に冊封される。この時「令」の文字をもらっている。この文字には聡明・英知という意味がある。

1749年令妃となる。この前の年に孝賢純皇后が亡くなり、嫻貴妃が皇后となっている。
1759年令貴妃となる。
1760年に後の嘉慶帝となる十五男の永琰を出産。

1765年令皇貴妃となる。この昇格する前に継皇后の断髪事件が起こっており、この昇格に反対した皇后が昇格を阻止するために起こした事件という憶測もある。

事実、皇帝と皇太后は昇格に賛成の立場だったが、継皇后は反対の立場だったという。
「皇貴妃」は皇后に次ぐ地位で生前に与えられるのは、よほど寵愛が強い時なので、その意味では皇后に対する心理的なプレッシャーが大きかった。

1775年寝宮の儲秀宮にて病により亡くなる。

1795年十五男の永琰が第7代嘉慶帝となったため、生母の令皇貴妃から皇后となり孝儀純皇后の諡号が送らる。

6人(4男2女)の子どもに恵まれ、清で最も多く子どもを持った妃として知られている。このことから乾隆帝にいちばん愛された妃というのが定評。
・1756年-1775年七女固倫和静公主
・1757年-1760年十四男永璐
・1758年-1780年九女和碩和恪公主
・1760年-1820年十五男永琰(嘉慶帝)
・1763年-1765年十六子男
・1766年-1820年十七男慶僖親王永璘

1766年に継皇后が廃位されると、皇后の代行として後宮を任されている。また葬儀は通常の側室の慣例儀式から18儀式も増やし、皇后の儀式より1つ少ない76儀式で執り行われた。

さらに遺品には皇帝、皇后、皇太后しか持つことが許されない東珠朝珠(首飾り)があったことから、乾隆帝より特別の待遇と権限を与えていたことがわかる。

それでも生前、皇后にすることがなかったのは政治的な配慮というのが一般論となっている。
ドラマではウー・ジンイェンが演じている。

ドラマ「璎珞/エイラク」動画・基本情報

原題:延禧攻略 (2018年)
評価:7.2(中国の辛口評価サイト「豆瓣douban」より)
時代背景:清朝/乾隆帝時代
キャスト:秦岚チン・ラン / 聂远ニエ・ユエン / 佘诗曼カーメイン・シェー / 吴谨言ウ―・ジンイェン / 许凯シュー・カイ
視聴方法:DVD、U-NEXT、BS12で放送(終了)

 

 

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海外好きなヤングマダムです。 韓流・華流/中国ドラマからあらゆる流行をキャッチする、 アジアウォッチャーを自負しています。

Comment

  1. チョクさん より:

    中国語の勉強のつもりで見始めたのですが、面白くてはまってしまいました。
    家内と一緒に見ています。
    時代背景の解説ありがとうございます、ドラマが一層面白くなりました。
    ところで、キャストの紹介でニエ・ユエン(nie yuan) と チン・ラン(qin lan) の読みが入れ替わって
    います。
    70代のおじいさんより

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