イ・サンの腹心ホン・グギョンの栄枯盛衰と勢道政治
イ・サンの腹心の臣下として要職に就き、次第に権力を掌握していく。
李氏朝鮮末期まで続くことになる“勢道政治”の先駆けとなる。 ※勢道政治:国王の信認を得た特定の人物や集団が政権を独占する状態のことをいう。 多くの場合、王室とりわけ国王との血縁関係や婚姻関係にある外戚の場合が多く、権力を集中させ政治を私物化するような場合が多い。 安東金氏はその典型として知られる。
○洪國栄はいかにしてイ・サンの信頼をえたのか?
洪國栄(ホン・グギョン/홍국영)1748年~1781年
ドラマでもイ・サンの信頼は厚く権力を掌握していく経緯が描かれていますが、実際イ・サンがまだ王になる前の王世孫のころから腹心として仕えている。 第21代英祖時代の1772年に文科(科挙)試験に合格し文官となり、1774年王世孫のイ・サンの侍講院説書(シガンウォンソルソ)に任命されています。 このころよりサンを抵抗勢力(老論派内の僻派ピョクパ)から守り、第22代正祖へ導く手助けをした。その中でサンから厚い信頼を得るようになっていくわけです。 1776年にサンが国王の座についてもその地位を脅かす勢力や党争がたえることはなく激しさを増していた。※侍講院(시강원):王世子に教育をする機関。世子(王の跡継ぎ)に経書や史書などを講義し、道義を教える。この時は既にサンが次期後継者として王世孫となっている。英祖の息子(荘献世子)は亡くなっていたため、孫のサンが後継者となっている。
○勢道政治の先駆け/権力と野心の暴走
サンが王位に付くとすぐに人事によって重要な機関の承政院(スンジョンウォン)に配属になりその中でも最高位の都承旨(トスンジ)となる。いわば王の秘書のような役目であり、次第に権力が集中していくこととなる。
そんな中、正祖の暗殺未遂事件が起こったのをきっかけに1777年王直属の護衛軍“宿衛所”(臨時の役所)を設置し、その大将を兼任するようになると文官のみならず武官にも影響を及ぼすようになる。 王の信認と称して命令を下したり人事を行うようになり、権力の一極集中により洪国栄は国政を動かすようになる。 これがいわゆる“勢道政治”の始まりです。1778年妹を正祖の側室として嫁がせ(元嬪洪氏ウォンビンホン氏)王室との関わりを深くしてく。この時異例とも言える待遇で後宮の最高位の“嬪”を賜っている。 しかし王の世継ぎを期待した元嬪洪氏は側室となってわずか1年で亡くなってしまい外戚としての地位固めに失敗。しかし野心は留まるところを知らず正祖の異母弟の恩彦君の長男(常渓君)を完豊君として亡き妹の養子にむかえ跡継ぎとして教育した。当時正祖には王妃との間に子どもがいなかったことから跡継ぎを確保しておく必要があることを洪国栄から上書され、元嬪洪氏(洪氏の妹)の養子、常渓君を王妃の養子として迎えることを意味していた。
これを受けて正祖は洪国栄を警戒し始める。これより臣下へ洪氏を弾劾するように仕向ける。しかし洪氏は弾劾されるより前に辞職を申し出る。しかし1779年に正祖は老論の重鎮の金鐘秀(キム・ジョンス)に弾劾させることにする。 上訴の内容は元嬪洪氏の死後、側室選びを妨害し正祖が跡継ぎ問題を軽視し国家を軽んじているようにみせかけ王の権威を傷つけたとして流刑を求めるものだった。これを発端に数々の目に余る行為が糾弾され、1780年死罪とまではいかなかったものの江陵への流刑によりその地で生涯を終えた。 まだ34歳の若さだった。 一方で洪国栄が妹の元嬪洪氏の死に疑問を抱いてそれに関わっているのが王妃の孝懿王后(ヒョイオウコウ)金氏ではないかとの疑惑の目をむけ王妃を毒殺しようとしたことで失脚したとの説もありますが、こちらは史実的な根拠の欠けるものとされています。この洪国栄を題材にしたドラマ(王道 ワンド / 洪國栄)もあります。
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