稀代の天才チョン・ヤギョンと正祖の政策
第22代正祖の時代が発展したのは王の力もさることながら、それを支え助言する臣下の人材も大きいところがあります。正祖の周りには個性的ともいえる逸材が多くいました。これも人徳のなせるワザでしょうか。その代表的な例が、以前紹介したペク・ドンス、洪國栄です。そして文化や学問に影響をおよぼしたのが丁若鏞(チョン・ヤギョン:정약용)です。ドラマの中で劇的な登場をしていますが、それはともかくとして稀代の天才といわれるほどの実力をもっていたのは確かな史実です。
○その賢さと才能で正祖も注目
丁若鏞(정약용)チョン・ヤギョン 1762年~1836年
朝鮮史上、最高の実学者として名高いく、正祖治政の文臣(政治家)です。幼少の頃からその天才ぶりを発揮し、4歳で250句の古詩からなる漢詩読本『千字文』を読みこなし、7歳で漢詩をつくるという神童ぶりをみせたという。身分的には“両班”という当時の朝鮮では支配階級の出身でしたが、少年時代から身分制度の不合理や社会制度を良しとする儒教には疑問を持っていた。
ちょうど正祖の腹心の臣下だった洪國栄が失脚した後に頭角を現し、正祖の政治改革を支える役を担う。1783年に初試に合格し成均館に入学する。その後1789年、科挙に首席で合格し、その優秀さは第22代正祖にも認められるほどだったという。1790年朝廷内で力のあった老論派によって流罪となるが正祖の計らいで11日後には復職している。
1791年から京畿道水原にある華城の設計と施行に携わり、大きな功績を残している。漢江に舟を並べて橋を架け、築城の時に挙重器(現代でいうクレーン)を開発したことは有名。この水源華城は正祖の理想都市ともいえるもので1796年に完成し一時は遷都も考えられていたが、正祖の急死により叶わなくなった。
1794年には暗行御史(地方官の監察を秘密裏に行う王直属の官吏)に任命され地方行政の刷新を行う。その後も活動の場を広げ、1798年麻疹と天然痘の予防法と治療法をまとめた『麻科会通』という医学書を執筆している。当時最も水準の高い医学書とされている。
○正祖の死後は老論の標的に・・
正祖の治政当時“朝鮮王朝のルネッサンス期”といわれるほど、外国からの文化を積極的に取り入れ変革を図ろうとしていた。しかし朝廷内の貞純大妃をはじめとする老論派は旧体依然のままで復古を望む者が多かった。その中でいちばんの標的にされたのがカトリック教徒だった。王朝の儒教とは相反する教えがあったため邪教としてうけいれなかった。反面、正祖はキリスト教を黙認していた。チョン・ヤギョンの親族にはカトリックを信仰するものが多く、また自身のとなえる“実学”も儒教の“性理学”の考えとは反するものだった。
そのため1801年、カトリック教徒の大規模な弾圧が開始され、それに伴い親族にカトリック信者が多かったことから流刑になる。(辛酉士禍)しかし18年間の地方の農村での暮らしがチョン・ヤギョンの執筆活動に大きく影響し名著といわれる作品へとつながった。代表的なものに地方行政の改革を記した『牧民心書(モンミンシンソ)』や国家の租税や財政政策の運用方法を記した『経世遺表(チョンセユビョン)』が有名だが、流刑後も中央の官職を辞退して執筆活動に費やした。生涯500以上もの書物を書き残している。
※京畿道水原「華城」:キョンギドスウォン「ファソン」1794年第22代正祖が政争により悲運の死を遂げた父を悼み、その墓を楊州から水原市の顕隆園(陵)に移し、その周囲に楼閣や城壁を作って防護し、2年8カ月の歳月をかけて造り上げた。
※暗行御史:(アメンオサ)主に堂下官(国政に参加することができるのは堂上といわれる正三品の位以上)から王が随意で任命する。王直属の監視官で地方監察制度の不備を補うためと王権を強固にするために設置された。史実では1555年(明宗)の頃からの記述しかないが、1509年(第11代中宗)ころよりあったといわれる。1892年(第26代高宗)まで続けられた。任命されると「封書」(任命書)「事目」(任務、派遣地の辞令書)、「馬牌」(人足や馬を調達する)、「鍮尺」(度量衡を計測するための道具)をもってそれぞれの派遣地で内偵を行う。(日本でいう水戸黄門のような存在)
※実学:観念の世界から抜け出し、民生問題や社会問題(後期の丁若鏞の時代には農業問題や商工業問題を積極的に取り上げた。)を方法論として事実に即して真理を求めることを追求した学問。
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