ドラマ「王女の男」でみるクーデター事件:癸酉靖難(ケユジョンナン)

 

ドラマ「王女の男」だけでなく長編ドラマ「王と妃」などいろいろなドラマに出てくる癸酉靖難(ケユジョンナン)は李氏朝鮮時代の大きな事件の1つです。癸酉靖難が起こった頃の時代背景をみてみます。

 

癸酉靖難(ケユジョンナン/계유정난)】

1453年に李氏朝鮮王朝で起こったクーデター事件

当時は第5代文宗の後をついで息子が第6代端宗として王になっていたが、弱冠11歳という若さだった。文宗は後をつぐ端宗の補佐を太宗のころからの重臣たちである領議政・皇甫仁(ファンボ・イン)や右議政・南智(ナム・ジ)、左議政・金宗瑞(キム・ジョンソ)らを顧命大臣として任命する。(顧命とは王が亡くなる前に口頭で残す遺言のことで、後継の政権を維持するために行われた。→ドラマで見る李氏朝鮮の風習:葬儀)

当時の王は外戚(王と婚姻関係で親戚になった人々)を後盾に朝廷内での王権の維持と秩序維持を行っていたが、端宗は早くに母親(大妃)を亡くし、祖母(大王大妃)もすでにいなかったため朝廷内で幼い王に力添えする人がいなかった。文宗の短命の治政と端宗の治政では王権の弱体化と同時に3人の顧命大臣の権限が大きくなり、それを危惧した首陽大君が王の権威を上げるために政変をおこしたとの見方もあります。(しかし儒教では家督を世襲するのは長男との考えから、世祖の行為は最終的に王位を略奪したと受け止められ、評判のよいものではありません。)

文武両道にたけていた首陽大君は王位を脅かす存在として完全に端宗(3大臣)と対峙するかたちとなった。大臣らが首陽大君をけん制するために王族の安平大君を味方につけ、一方の首陽大君は先代(世宗)の兄にあたる讓寧大君を後盾にしていた。首陽大君はすぐには動かず周到に準備をして時を待っていた。まず周りの警戒をそらすために謝恩使として中国の明に行き、その時に随行した申叔舟らと計画を練り、帰国後すぐに実行した。

まず、長年の政敵キム・ジョンソの自宅に赴きその場で殺害、他の大臣は宮殿に招集させられファンボ・インをはじめ政敵を徹底的に殺害した。さらにキム・ジョンソに担がれた安平大君は流罪の上、賜死となった。端宗は外堀を崩されたあと、退位をせまられ上君となり王位を首陽大君に譲った。ここに第7代世祖の誕生である。

しかし王の政権交代がおきて1年後、端宗の復位運動があるということで上君(端宗)がいては今後も同じことがおこることを恐れた世祖によって降格させられ流刑になりその後、賜死した。まだ16歳だったという。この時、姉の敬恵公主は夫が反世祖の運動に関わったとして夫は流刑の上、死罪となる。敬恵公主は身分を奴婢におとしめられたとせれ、その後、程なくして身分を回復し宮廷の側に住まいと生活の援助をもらったとされていますが、詳しいことは残っていません。

讓寧大君(ヤンニョンテグン):第3代太宗の長男で第4代世宗の兄。もともと長男として王位を継承する資格があり“世子”として14年間過ごしたが、自身の行動が原因となり廃位させられその後を弟の忠寧大君(後の世宗)にゆずった。一説には弟の王としての素質を見抜き身を引いたという話しもある。(世子を交代するには大義名分が必要。)

安平大君(アンピョンテグン):第4代世宗と昭寧王后の3男で、文宗・世祖の実弟。成均館(儒教の勉強や文臣となるために両班の子息が通う学校)のころ、その優秀さから世宗が首陽大君と共に王位を脅かすとして宮廷外にけん制した。しかし気質が文芸よりだったため脅威にはなりえなかった。この事件では対抗勢力として担がれただけとの見方が強い。結局、謀反の黒幕として弾劾され流刑の上、処刑された。

 



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