昭顕世子(ソヒョンセジャ)の死のキーパーソン貴人趙氏の悪女ぶり

 

朝鮮王朝の歴史の中で悪女と言われる女性の中でも特に強烈なのがこの貴人趙氏。第16代仁祖の後宮の一人。仁祖の長男の昭顕世子(ソヒョンセジャ)の死とその妻世子嬪姜氏の失脚(自害)にも深くかかわった人物とも言われている。

貴人趙氏の成り上がり

出生の詳細はわからないが1630年に入宮(女官)しその後淑援、1680年に昭媛、1640年に昭容、1645年に昭儀を経て、1649年に貴人の位に封じられた。仁祖との間に二男一女をもうける。長男崇善君(スンソングン)は第19代粛宗のいとこ東平君(トンピョングン)の父親である。
※東平君は粛宗の後宮、張嬉嬪を後押しした人物。

もとは仁祖の1人目の王妃仁烈王后付きの女官だったようだ。仁烈王后が亡くなった後、本来であれば揀擇(カンテク)によりすぐにでも継妃を決めなければならなかったが政治(外交)が落ちつかずその期を逸してしまっていた。その隙に取りいったのが趙氏だったようだ。もともとの素性はよくわかっておらず女官になったのも身分をごまかしていたのではないかとも言われている。

昭顕世子との不仲が招いた疑惑

王の寵愛を受けると怖いものはなし。さらいに権力への執着にはすさまじいものがあり、他の側室(後宮)さらには継妃の荘烈王后(チャンニョルワンフ)にまで危害を加えようとする始末。あまりの悪事ぶりに周囲の者も気づくほどで「朝鮮王朝実録」にも何度も記されるほどだった。(実録は王の行いを記録するもので、女性に関する記述はまれ。)
特に世子嬪姜氏とは犬猿の仲だったようだ。

昭顕世子の急死の謎と陰謀

事あるごとに昭顕世子世子嬪姜氏(セジャビンカン氏)の悪い噂を吹き込み、仁祖の世子への不信を増幅させた。昭顕世子の死に関しては直接の関与を示す記述は残っていないが、昭顕世子の主治医の李馨益(イ・ヒョンイク)は趙氏の母の実家によく出入りしていたという。   (>>> 昭顕世子の死についてはこちら

さらに昭顕世子の死後、世子嬪姜氏への攻撃はエスカレートしていく。世子という王の跡継ぎが亡くなっても通常跡継ぎは長子の子(世孫)が受け継ぐのが正統となっていたためと思われる。(昭顕世子には男子が3人いた。)そのような状況の中で決定的な事件が起きる。仁祖の食事に毒が盛られた、いわゆる“アワビ事件”である。これも趙氏の自作自演だったというのが一般的な見方である。
これにより立場上、世子嬪姜氏の関与が疑われさらには言い訳すらしなかったため最終的に賜死(王より服毒を命じられること)した。

栄華の終焉

仁祖の寵愛を盾にやりたい放題だった趙氏も仁祖の死とともに、終わりを迎える。第17代孝宗(昭顕世子の弟)は、かりにも王族で父への孝行から趙氏を処分できずにいたが、仁宣王后 張氏(孝宗の正妻)の呪詛を発端に、荘烈王后、息子崇善君の正妻伸氏への呪詛が発覚し、ついには孝宗より自害を命じられた。その後貴人趙氏にゆかりのある一族はことごとく粛清された。
※呪祖(じゅそ)は朝鮮王朝の後宮では廃位や死、王宮からの追放に値する大罪



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