韓国時代ドラマ「トンイ」のゆくえを握る派閥党争 西人派vs南人派
李氏朝鮮時代の第19代粛宗の治世は朝鮮王朝の歴史の中でも特に政治(官僚)派閥の党争が激しかったとされています。派閥党争があればそこに陰謀があるもので、往々にしてそこに人が巻き込まれていくのが世の常。ドラマでは多少の脚色があるにせよトンイに出てくる人々も“南人派(ナイン)”と“西人派(ソイン)”に分かれています。
粛宗の母親(明聖大妃)と第二王妃(顕仁王妃)は西人派、対する張嬉嬪チャン・ヒビンは南人派です。ドラマの中でも事件が起きる度に南人、西人が頻繁に取り上げられます。後宮の勢力図もこの政局とリンクしていますので、この二派の争いが時代に大きく影響しているのは興味深いところです。
ドラマ「トンイ」ではこの争いがサスペンスのような演出になっていてドキドキさせられます。
李氏朝鮮時代の政治派閥については下図を参考にしてください。
粛宗はこの2つの政派のバランスをとることで在位期間45年と史上2番目に長い君主となっています。特に粛宗年(治世)末期は後継者問題と関連して対立が激しくなっています。張嬉嬪の死により南人派の勢力は下がり、西人派が盛り返しますが20代景宗の後継をめぐって同じ西人派の中で老論派(ノロン)と少論派(ソロン)が対立します。
21代英祖は淑嬪崔スクビン・チェの息子(ドラマのトンイの息子)です。景宗の義弟にあたります。この派閥党争はここだけにとどまらず、22代正祖(イ・サン)の先まで引き継がれました。そのためイ・サンの父・荘献の死という悲劇をうむことになります。ここからはドラマ『正祖イ・サン』で描かれています。
この時代の李氏朝鮮王朝家系およびトンイとイ・サンの関係はこちらをどうぞ。
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