「イ・サン」の政局からみた相関図
韓国ドラマ「イ・サン」の中でも描かれているように、この時代の政局には大きく分けて“老論派”と“少論派”があります。 相関関係はこの政局でみればわかり易いです。
いずれもイ・サン(正祖)の先々代、第19代粛宗の西人派が分裂してできたもので後継者問題と重なって対立が激しくなっていきます。
この対立がイ・サンの父親(思悼世子サドセジャ)の死という悲劇をうむこととなり、さらにそのことで新たな政局の流れを作ることになります。
【ポイント1:後継者はだれ?】
☆西人派:老論派( ノロン)/ 少論派(ソロン)
→老論派(淑嬪崔氏の息子=後の英祖を19代粛宗の跡継ぎとして支持)
→少論派(禧嬪張氏の息子=後の20代景宗を19代粛宗の跡継ぎとして支持)
◇南人派:大量粛清の後、弱体化。後に吸収される。(甲戌換局1694年の大粛清)
結局、李氏朝鮮では長男が跡継ぎとして正当なため景宗が20代目となり、老論派は景宗の暗殺を企てたとして大量粛清。 しかし病弱で子どもに恵まれなかったため英祖が王世弟として景宗の跡継ぎとなり21代君主となる。
21代英祖には2人の息子がいたが、長男の孝章世子は10歳の若さでなくなったので、次男の思悼世子(サンの父親)が跡継ぎとなる。
この頃、思悼世子が師事していた学者が少論派(穏健派)だったため敵対する老論派(過激派)はこの勢力を抑えるために画策。(その画策によって英祖は息子の思悼世子を死に至らしめてしまう。 元々性格の温厚な思悼世子は勢力争いを嫌い、周りのプレッシャーにより精神を病んだといわれている。)英祖も当初は老論派の官僚を起用していたが、党争の緩和をはかるため“蕩平策タンピョンチェク”という人材重視の官僚登用を行う政策を実施する。
【ポイント2:世子の死の真相は?】
◎老論派→僻派(世子の死は妥当とする。)
△少論派→時派(少論派主流。少数の老論派と南人派、世子の立場に同情的。)
第22代正祖は父親を死に至らしめた老論派をけん制し親政体制を強化していくために、英祖の政策“蕩平策”を継承し官僚の平等な登用を行うことにつとめた。 正祖の治世には時派が官僚の主流を成すようになったが、逆にけん制された僻派は危機感を募らせ政権奪還の機会をねらうこととなる。
正祖の後を継いだ純祖は幼かったため老論派の強靭な後ろ盾である貞純王后金氏チョンスンワンフ(この頃王大妃ワンテビ=先々代の王妃)は垂簾政治を行うことで政治に介入するようになると僻派が政治を主導していくようになる。
==【イ・サンの登場人物と相関図】==
※おまけ:老論派の金漢耈と洪鳳漢は共に英祖時代の重役官僚で老論派の重鎮。家格は金氏が上であった。
正祖(イ・サン)の治世に老論派の粛清が行われたが、金氏は外戚のなかでも大王大妃テワンテビ(貞純王后金氏)の実家であったため手出しできなかったとされている。 逆に洪氏は自身の母方であったが、父親(思悼世子)の死により王族ではなくなったため粛清され、没落の危機に瀕することとなる。母親(恵慶宮洪氏ヘギョングンコウシ)は実家と息子達の板ばさみで辛かったでしょう。。。
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