権力闘争が招いた悲劇:思悼世子の死

 

壬午禍変(壬午の獄)とは、1762年に起きた英祖が息子の荘献世子(死んだ後に“思悼”と追尊)を米びつの中に入れて餓死させた事件。なぜ英祖(父親)の手で息子を死に至らしめるまでになったのかといえば結果的には王室を守るためということになるのでしょうが、それにしても後味の悪い事件です。

 

○思悼世子を追い詰めたのは?

発端は少論と老論の権力争いですが、王の後継者争いともあいまってその様相が激しさを増していきます。第21代英祖は官僚から権力を王に集中させようといろいろな政策(蕩平策が有名)を実行しますが、思ったような効果がなく王権や王室の権威に危機感があったものと思われます。

王の権威を回復させ強化するためにも英祖は思悼世子に“代理政聴”(テリチョンジョン대리청정=摂政)をさせようとします。王の代理として政治を行うわけですが、最初はそれを実行することすら官僚たちに阻まれてしまいます。代理政聴が遂行されるようになると今度は、思悼世子に権力が集中することを恐れた老論派(英祖支持)の臣下達が少論派(思悼世子支持)の権力や外戚(思悼世子の正室の恵慶宮洪氏一族)の力を抑えこもうと躍起になります。

その老論派非外戚権力の中心となったのが、英祖の第二王妃貞純王后金氏とその一族です。金氏と洪氏はともに老論派でしたが金氏は急進的、洪氏は穏健的でお互いに相容れないところもあったようです。

もし貞純王后に男子が生まれれば順位的には跡継ぎ1位となるために、思悼世子を失脚させようともくろみます。思悼世子の悪評を英祖に吹き込み追い詰めていきます。思悼世子の義父の洪鳳漢が領議政になるとその権力拡大を恐れた金氏側は思悼世子が王になったときの粛清を恐れ、ますます思悼世子への攻撃が激しくなります。そのような周りからのプレッシャーとストレスから思悼世子は次第に心の均衡を失い(“火症”といわれる精神疾患といわれている。)奇行がとりざたされる事態にまで至ってしまいます。

 

○最終的な思悼世子の死

そんな中、臣下の「思悼世子に謀反の疑いあり」との言葉に英祖は怒り兵を動員する事態となります。さらに思悼世子を呼び寄せ自害を命ずるに至り、この時駆けつけた洪鳳漢氏をはじめとする臣下は傍観していたとされています。そこに思悼世子の息子サンが命ごいにやってきますが、追い出されてしまいます。

しかし最終的に英祖に引導を渡したのは思悼世子の実母である靖嬪李氏の「謀反」の密告であるとし、世子を米びつの中に閉じ込めるように命じます。その8日後、思悼世子は死亡します。実の母親が息子を死にやるのは解せませんが、妻の恵慶宮洪氏や義父の態度からもすでに世子を見限っていたのでしょうか。さらには実の妹の和緩翁主も敵対することになります。

英祖は思悼世子の死は非外戚で老論派の金尚魯に最終的に原因があるとしてすぐに罷免し流罪と賜死(死ぬほどの大罪ではなかったのですが。)に処してしまったとされています。ここで悪循環を断ち切りたかったのでしょう。しかしその世子の死が新たな権力闘争と朝鮮王朝の衰退へと近づくことになってしまうのです。

 



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