貞純王后金氏:朝鮮王朝の後退を招いた“女君主”

政治に介入しこれまでの政策をことごとく否定した女性としてあまり評判がよくない方です。自称“女君主”とまで言ったその片鱗を見せるような自尊心の高さと気位の高さの表れたエピソードが残っています。

王妃の候補者の審査を行う(揀擇カンテク)際に「この世でいちばん深いものは?」の問いに対し、他の候補者は“山”や“海”を深いと答えたのに対し貞純王后は「人の心が深い」と答えた。また「この世でいちばん美しい花は?」と聞かれ「綿の花です。」と答え、それは「華やかさと香りは群を抜いては無いけれど、糸を紡いで人々を暖かくしてくれる花だから。」と言って英祖を感心させたといわれています。
また衣服の採寸の際に女官に「後を向いてください。」といわれたところ「おまえが回り込めばよいではないか。」と言い返したということです。

 

 

○貞純王后金氏を取り巻く環境

貞純王后金氏(チョンスンワンフ1745年~1805年)朝鮮王第21代英祖の第二王妃(継妃)として14歳のときに輿入れしています。当時英祖は66歳で朝鮮王朝最も年の差のある結婚でした。しかも息子の思悼世子より10歳も若いという逆転現象がおこってしまします。さらに当時の朝廷内でおこっていた少論派と老論派の権力闘争の急先鋒として少論排除に躍起になっていたのが貞純王后の一門金氏です。老論派でも有力な一族で、貞純王后を王妃にしたのも父親の金漢耈の力添えが大きかったようです。

 

○暴挙に出た“女金主”―朝鮮王朝の後退

老論派でも中心的な存在の貞純王后は思悼世子の死にも間接的に関わり、一族でも少なからず“死”に関わる者も多くいました。よって(貞純王后から見れば)世孫のサンが王位を継ぎ第22代正祖になると立場が不利になります。父親を殺されたサンからすれば仇になるので、祖母(大王妃)とはいえ仲が悪かったようです。正祖によって周りが粛清されていく中、さすがに立場が危ういと思ったのか正祖在位中は表立った行動は控え、隠居生活のようだったと記されています。貞純王后(大王妃)は弱冠31歳の若さでした。正祖は憎い相手だったけれどさすがに祖母には手を出せなかったようです。

1800年正祖の後を継いだ第23代純祖はまだ11歳と幼かったため代理で政治を行うようになります。これが“垂簾政治”といわれるものです。これまでの正祖の政治改革をことごとく否定し、法律までも元に戻してしまう有様で保守的な国家に後退したと言われています。また正祖の時代に不遇な目にあった自分の一族を優遇し重職に付かせ、政敵の少論派や正祖の臣下だった者達を次々と粛清していきました。

特にひどかったのが“カトリック教徒”の弾圧です。正祖は外からの文化も取り入れ、カトリックも事実上、黙認しているところがありました。しかし貞純王后と敵対する者にカトリック信者が多かったことと、これまでの儒教の教えを否定するものだとして弾圧を強化します。1801年カトリック教徒300人以上が殺害されるという「辛酉迫害」を起すに至ります。

若くして年の差婚をして、子どもを生むことなく抑圧されて権力闘争の中を生きた女性として同情する部分もありますが、周りでうっ憤晴らしをされては迷惑な話でもあります。儒教を重んじる姿勢と一族に対する忠誠心なのか、何が彼女をそうさせてしまったのでしょうか。貞純王后の影響力が半端ではないところが悲劇です。

 

こんな記事も読まれています



サブコンテンツ

このページの先頭へ