孝宗の北伐論からみる 李氏朝鮮から続く儒教と社会
ご存知の通り、李氏朝鮮時代以降の韓国においては『儒教』が社会の根幹を成し、今日までその影響は続いています。
当時の政治において儒教は朝廷の方針をも左右するもので、その考えや教えは李氏朝鮮建国以来、儒教朱子学を官学とし王族や両班(ゆくゆくは国を動かす立場の人々)の教育にも取り入れられていました。
→侍講院(シガンウォン)、成均館(ソンギュンガン)
※朱子学:儒教の新しい学問形態で、もともとの儒学を発展させたもの。
基本の書となるのは「四書」と「六経」に『小学』『近思録』が加わる。
よく歴史ドラマでの勉強シーンでこの教書の名前がでてきます。
基本的には本文の暗記と解釈の理解です。読む順番は『小学』『近思録』『大学』『論語』『孟子』『中庸』『六経』となっています。
○政治に利用された?!孝宗の北伐論と宗時烈
宗時烈(송시열) ソン・シヨル1607年~1689年
李氏朝鮮後期の政治家であり、儒教朱子学の大家といわれる。第17代孝宗~第19代粛宗のころまで文臣を務めた。当時の朝廷の主力党派であった“西人派”に属し、後に西人派が分裂してできた“老論派”の領袖といわれた人物。特に第17代孝宗は鳳林大君(王になる前)のころより宗時烈を師と仰ぎ教育を受けていた。
その孝宗が第16代仁祖の後をついで第17代孝宗となると重臣として宗時烈をはじめとする西人派の臣下を多く登用し「北伐」を計画する。特に宗時烈は北伐計画について相談されることが多かった。
宗時烈自身はそこまで北伐に関して積極的ではなかったという見方もある。しかしかなり儒教朱子学の原理主義者であり、孝宗の北伐論と時を同じくして衰退した中国の明に代わって朝鮮朱子学の正統性を掲げた。つまり中国が女真族国家の清に変わると明の儒学の伝統を継承するのは朝鮮朱子学であり、先賢の道を発展させる使命があると考えた。
このことは朱子学の考えに基づき朝鮮が清に対して「復讐雪恥」するのは仁・義であり、その仁・義を立てることは「三網五常」を守るための基本であるとして北伐論の正当性を論じ、これが孝宗の北伐計画の考えを後押しするものとなった。
○儒教家としての宗時烈の影響
宋時烈が説いた教えの中には李氏朝鮮後期から近代に至るまで韓国の社会に根強くのこる社会規範や制度にまで影響を及ぼしている。李氏朝鮮時代に徹底された「身分制度」もその一つである。
これは儒教の“身分秩序”を体系化したもので江戸時代の「士農工商」もこの流れでできたもの。元々の身分は良民と賤民の2つしかなかったが、両班といわれる支配階級を分化させることで良民と賤民の中にも階級ができるようになった。この身分制度により異なる身分間の婚姻は避けられ、引いては同氏族間での婚姻を禁じる『同姓同本不婚制度』は儒教の教えを基に浸透した制度である。
近年(2005年)になり男女平等に反するとして完全に廃止された。
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身分違いの婚姻がないわけではなかったが(第21代英祖は母親の淑嬪崔氏の身分で苦しんだといわれる。)基本的に子供は母親の身分を継ぐものとした。英祖時代の1746年に編さんされた『続大典』には婚姻条項として明文化された。
このことからも分かるように宋時烈は儒教の大家として政局を左右する立場にいた。特に李氏朝鮮では“道義”を持って正しいか否かを判断していたため、儒家の教えは重要な意味をもった。孝宗の北伐計画からも分かるように儒教家のいう道義が政治の正当性を決める根拠となることが多く、王が政治的決断をするときにもこの“道義”をもちだすことが多かった。
政治家としての宗時烈は逆にいえば政局に左右される立場でもあった。孝宗、顕宗の時には西人派が朝廷の主流を成していたが、第19代粛宗の時代は南人派が主流となっていく。第19代粛宗の1689年、粛宗が南人派の禧嬪張氏の息子を世子に冊封しようとしたのに対して、時期早尚であるとして異議を唱えたところ粛宗の怒りを買い済州島に流刑となるが、途中で賜死した。これが西人派を粛清した己巳換局(キサガングク)で以後、南人派が力を持つ。以後は淑嬪崔氏の登場で西人派から老論派、少論派の党争へと発展する。