ドラマを理解する 李氏朝鮮の『北伐(論)』とは?

第17代孝宗以降の李氏朝鮮後期のドラマにはよく“北伐”という言葉が出てきます。

これまで紹介した『ペクドンス』や『馬医』にも出てきます。

官僚の中に広まった政治的イディオロギーといえるかもしれません。孝宗は第16代仁祖の次男であり兄の昭顕世子と清に人質として過ごしていた経験があります。昭顕世子が清の文化に感化されたのとは逆に、父仁祖親明排清の考えを推し進める後継者として王になります。(仁祖の意向が大いに働いたと考えられています。)

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父の恥辱をはらすために1658年より清を倒す北伐計画を進め、軍備を増強していった。重臣には当時勢力が強かった“西人派”から多数登用しました。

もともと西人派は第16代仁祖をクーデターによって王に担ぎあげた党派です。その中に後に老論派の領袖といわれる宋時烈(ソン・シヨル)がいます。宋時烈と彼の考えは後の李氏朝鮮、引いては現在に至るまで大きな影響を及ぼすことになります。

北伐は李氏朝鮮建国当時からあった問題でしたが、中国との関係において清以降、朝鮮では孝宗のころより強調されるようになりました。

孝宗は北伐計画を西人派の中心である宋時烈とともに作り上げていきますが、丙丁胡乱によって荒廃した国土を立て直すために財政難となり、当の孝宗も在位10年目にして亡くなってしましまったため計画は途中で頓挫してしまいました。

皮肉にも孝宗が北伐のために強化した軍備は清に目をつけられ、ロシアからの侵入を防ぐために2度にわたって軍の派遣を命じられています。

その後、北伐が表立って行われるのは第19代粛宗のころですが、第21代英祖は老論派を後盾としていたため政治的イディオロギーはこのころまで続いたと思われます。

 

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