「太陽を抱く月」で見る政治_李氏朝鮮初期
ドラマ「太陽を抱く月」の歴史的背景にも関連しますが、ドラマの中でユン・デヒョン(王妃の父)が復活を望んだ制度を“院相制(度)원상 제도ウォンサンジェ”といいます。
院相制:王の権限を宰相も行使できるというもの。
1400年 第2第定宗 承政院を設置する。→ 以前は中枢院としていた。 1468年 第7代世祖 院相制を導入 1476年 第9代成宗 院相制を廃止 ○中枢院(チュンチュウォン):朝鮮において、高麗から李氏朝鮮初期に置かれた官衙。王命の出納、兵機、宿衛、警備などを行った。 ○承政院(スンジョンウォン):中枢院の権限を分譲し新設された。承政院は伝達される王命を通達し、臣下の上奏を検閲した。さらに六曹の業務を分掌していたためいわば国家の機密機関で王の秘書である。
院相制導入に至るまでの経緯
この制度は第7代世祖が晩年の1468年になって政治に導入したもの。もともと王位を譲位させたのも王権を強化する目的があったためだったが、その政治手法が議政府と台諌(司憲府と司諌院)の機能を縮小し承政院の権限を増大させ、徹底した側近政治を行うものだった。
それぞれの官職の役割を見てもらえばわかるが、承政院は王命を司り他の官僚に伝えるところでいわば王の伝言役、他の議政府(政府の意志決定機関)、それぞれの官職の役割を見てもらえばわかるが、承政院は王命を司り他の官僚に伝えるところでいわば王の伝言役、他の議政府(政府の意志決定機関)、台諌は王に諫言する立場(いわば王の政治を諫める対極の立場)にあったことが分かる。
世祖は承政院にてすべての政務を自身が直接処理し、その王命を受けて実務に反映させるのが六曹と言われる機関だった。承政院と六曹の役職(長官)についていたのは腹心で癸酉靖難(世祖が王位を奪うために起した事件)の功臣たちだった。
この承政院と六曹の長官を“院相”とよびその政治運営を院相制(度)という。これは世祖が晩年、自身の体力の限界により考案したもので、王が指名した三重臣が承政院に常勤して王子と共に全ての国政を相談して決める一種の代理庶務制だった。
その三重臣が世祖の側近中の側近である韓明漕、申叔舟、具致寛だった。
院相制の廃止
世祖の死後、第8代睿宗が後をついだがまだ成人していなかったため母の貞喜王后によって垂簾聴政が行われた。これは李氏朝鮮史上初のことだった。
これに世祖時代の院相たちが加わり摂政と院相制により政治を安定させた。しかし睿宗の治政は長くは続かず1年2ヶ月で幕を閉じた。
そこで生じたのが跡継ぎ問題だった。睿宗には2人の息子がいたが共に幼いとのことで王位には適任ではないとされ、そこで白羽の矢が立ったのが世祖の長男の次男、者乙山君(当時12歳)のちの成宗である。
成宗は最初の7年は祖母貞喜大王大妃の垂簾聴政により院相制をそのまま引継ぎ政治を行っていた。
その後1476年の垂簾聴政の終了と共に院相制を廃止し王の決裁権を取り戻した。その廃止に伴い朝廷内の文臣を一掃し士林派を多く登用し政治基盤を固めていった。
《余談》
当時、成宗が王になれたのは韓明漕と貞喜大王大妃の力が大きかったことがある。韓明漕は第8代睿宗の正妃、第9代成宗の正妃にそれぞれ娘を嫁がせている。世祖の功臣として、また外戚としての立場が強権だったことがうかがえる。1476年の院相制廃止と同じ年に政界を引退している。
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