韓国ドラマ「三銃士」でみる昭顕世子(ソヒョン世子)の人物像にせまる!

 

韓国ドラマ『三銃士』での昭顕世子(ソヒョン世子)は1636年の丙子胡乱の結果、翌1637年に清(後金)に人質に行くまでを中心にドラマの背景としています。疑惑の死により、人質後は多く語られることがありましたがその前については多く語られていません。
そもそも仁祖(父親)とも最初から仲が悪かったわけではなさそうです。

ソヒョン世子の生い立ちと環境

1612年綾陽君(後の仁祖)の長男として生まれる。しかしこの時(第15代光海君治世)父は次の王の候補ではなかった(第14代宣祖の庶5男)ため単なる王族でしかなかった。もちろん居住は王宮の外。
しかし1623年仁祖反正のクーデターにより光海君を廃位し父が第16代王仁祖になったため突然後継ぎ候補になる。

1625年世子として冊封される。この場合、父は王世子を経験せず王になったことから中国(後金)からの朝鮮王としての冊封に手間取ったことが世子冊封にも影響していると推測できる。(クーデターの結果とは言えないでしょ。。。)

※通常、世子に冊封される条件として①王と王妃(中殿)の一番目の長男であること ②その者に徳があることの2つがあった。これ以外では名分が必要だった。また最終的に中国皇帝からの勅令により名実ともに世子として認められることになる。(冊封体制

世子になってわずか2年後の1627年後金が李氏朝鮮に侵略してきた丁卯胡乱が起こる。この時ソヒョン世子は戦火を逃れるために全州へ避難している。この年の年末に右議政の姜碩期(カン・ソッキ)の娘と結婚。これが世子嬪姜氏である。
2人の間にはソヒョン世子の死に絡む処分として済州島に島流しになった3人の息子をはじめ、早世した2人を含む5人の女子がいた。

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人物像を知る貴重な資料 朝鮮王朝実録と日記の存在

最近ではこれまでの歴史上の人物が違う観点からみられるようになり、評価も違ったものになってきています。
このドラマの中のソヒョン世子もその一人です。ドラマでは多少の脚色はありますが、その基になっているのは「朝鮮王朝実録(仁祖)」、「昭顕東宮日記(ソヒョントングンイルキ)」「昭顕分朝日記(ソヒョンブンジョイルキ)」「昭顕瀋陽日記(ソヒョンシムヤンイルキ)」の歴史書物です。

朝鮮王朝実録は王の言動を記したものなので王の都合の悪いことは書かれませんが、東宮日記はその時代の東宮(世子)の様子を記しているので世子の立場で言動が記されています。近年、ようやく解読され新たな史実が分かってきています。
このことからドラマの人物設定には言動から想像できる人物像と期待をこめた人物像を描いています。

ソヒョン世子の人物像とエピソード

どのドラマでもソヒョン世子の性格は親孝行でやさしい仁徳のある人として描かれています。その性格の表現はフィクションですが、実際の史実でもそれを感じさせる行動が残っています。

仁祖にとっての屈辱となる「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼」を行った際には、父の屈辱を思い同時に涙したという。またその後の仁祖を必死に慰めたのもソヒョン世子だった。 またその時の和議により自分が人質として清に赴く際、戦乱で困窮した民に食糧を分け与えた。このようなエピソードが多く残っている。
ここから父親思いで優しい性格が想像できます。

その反面、武芸と勉強はイマイチだったようで、日記には丁卯胡乱の際に「馬の乗り方は慣れておらず危うい」と書かれれいる。また世子教育の成績も可もなく不可もない記録が残っている。「三銃士」でのさっ爽とした馬の乗りこなし様はいわばソヒョン世子への願望が大きかったのではないでしょうか。

ソヒョン世子の運命の分岐点となった“人質”生活

逆に机上の空論よりも政治家としての実務が優れていたとの評価もあります。
清の人質だった8年間は田畑を耕しそれで得たお金で商業を始め朝鮮人の捕虜の待遇改善や時には清と朝鮮の外交交渉も行ったほどだった。人質生活は朝鮮を清の脅威から守るための手段だったが、仁祖の目にはよく映らなかったようだ。

もともと儒教では“商業”は低い職業としてみられていたこと、取引相手が自分たちが野蛮とみなす相手だったことなどから嫌悪感を抱いていたと思われる。また清の高官と良好な関係を築いていたソヒョン世子を清側が朝鮮王として冊封して自分の地位を脅かすのではないかと脅威を抱いていたとも言われている。

清の人質から解放されて朝鮮に戻ってきた後はかなり冷遇され、そのわずか2カ月後に急死した。

 

ドラマはこのような史実をもとに人物設定やエピソードの演出を行っています。少し歴史的な背景や生い立ちを知っていればドラマが何倍も楽しくなりますよ。



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