イ・サンの暗殺未遂事件と恩全君

第22代正祖は生涯において幾度となく暗殺の危機にあったとされています。その自身の死ですら毒殺ではないかと憶測をよぶものでした。史実にある暗殺未遂事件をみてみます。

 

 

○反発する朝廷と暗殺未遂

1776年イ・サンは第22代朝鮮王として即位する。この時サンは実父(荘献/思悼世子)の不名誉な死によりその兄孝章世子の養子として後継者(王世孫)となっていた。しかし即位したのを機に自分は荘献世子の息子であることを公言した。

正祖はそのころ朝廷の中心となっていた老論派の力を抑えるべく人事を行っていく。これをよく思わない老論派の中には荘献世子の死にかかわった正祖の実母恵慶宮洪氏の親戚が多くいた。洪氏一族は荘献世子の米びつ事件によって多くの者が粛清され流罪や死罪になっていた。危機感をつのらせた洪氏一族は、一族の存亡をかけ洪相範を中心として正祖の廃位を画策する。このとき正祖の護衛を務めていた姜龍輝に正祖の暗殺をもちかけますが、寝所に侵入したところを捉えられ暗殺は失敗に終わる。

洪相範は英祖の時代、荘献世子の過ちを告発させることで世子の死の契機を用意した洪啓禧の孫にあたる。

 

○老論の政変画策

しかしこの暗殺未遂事件はこれで終わりとはならなかった。関係者を追及していくうちに正祖の異母弟の恩全君を利用して政変を起そうと画策しているとの供述があった。しかもその中心が母恵慶宮洪氏の実弟の洪楽任であるとのことだった。これを契機にいままで正祖に抑圧されていた老論派の官僚たちは自分達の力を見せしめ正祖の権威を失墜させようと恩全君への糾弾の勢いを強め、恩全君の死罪を求めて正祖に直訴した。

当初は証拠がないと恩全君をかばっていた正祖だったが、毎日行われる百官の直訴により、最終的には朝廷を統制しきれなくなり死罪を命じることとなる。王の権威を失墜させることに成功した老論は、同じく名前のあがった洪楽任の追及は恵慶宮洪氏の意向もあり追及されることはなく無罪放免となっている。

 

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