イ・サンの治政と政策(蕩平策と商業の発展)

 

イ・サンこと第22代正祖は韓国の歴史ドラマではよく登場する王の1人ですが、生い立ちや周りの人物はもとより正祖自身も政治的な改革を行ったことで評価の高い人物です。

その中で正祖が行った行政改革で注目されるのが“蕩平策”(タンピョンチェク)と言われるものと、商業の発展につながったとされる“辛亥通共”(シネトンゴン)です。

 

○党の融和と親政

蕩平策はもともと先代の英祖が行おうとしたものでしたが、当時は朝廷を老論と少論の2大党派が役職のポストと権力をめぐって熾烈な争いをしていた。その陰謀の犠牲となったのが思悼世子でした。そこで英祖は権力や実家の力によるものではなく、各党派から偏りなく要職へ登用し党派の融和を進めようとしたものだった。しかし実際には英祖を王に押し上げた老論に恩義を感じていた英祖は老論重視の人選をして事実上、政策は骨抜き状態だった。

それを復活させ継承したのが正祖だった。1777年、王に忠誠を誓う臣下はどの党派であろうと能力のある者は積極的に要職につけた。第19代粛宗粛正禧嬪張氏の失脚による)により政治の表舞台から遠ざかっていた南人を多く登用し、これまで老論と少論と党争に一石を投じる人事改革を行った。これにより党争の融和を図り親政(王の復権)を行いたい正祖だった。

しかしこの頃、朝廷内の党派は老論、少論を中心としながらも正祖の父(思悼世子)の死を正当な処遇とする考えの僻派とその死に同情的な時派に分かれていた。老論派の中にも時派に賛同するものが少なからずいたが、時派の中心は少論派と南人だった。結局のところ父の死に同情的だった時派を優遇する形となり正祖の思惑通りにはいかなかった。

 

○産業の発達

イ・サンがまだ王世孫のころからあたためていた政策が商業の自由化でした。そこで3度の政策を打ち出しています。その最も大きかった改革が1791年の辛亥通共(シネトンゴン)です。当時の左議政、南人の蔡済恭(チェ・ジェゴン)の発案で、それを起用したものでした。

もともと朝鮮時代の商業は政府の商業統制機関の平市署の監視下のもと市廛(シジョン)と呼ばれる公認の商人しか商いができなかった。これは専売権をもらうことで毎年多額の国役(御用聞き)負担を負うことで政府からの資金援助や非公認の商店(乱廛:ナンジョン)の排除を行って市場の独占をしていた。このことで市場の安定と秩序を維持してきたが、隣国や国内情勢により農村より都市部に人が流入してくるようになると需要に対する供給量が不足し違法な乱廛が勝手に商売をするようになった。それにより安価な商品が出回ると、市場を独占して価格の吊り上げを行っていた市廛は黙っているはずもなく、両者の対立と混乱は収まりがつかなくなっていた。

平市署:市場店舗の取締り、度量衡の統制、物貨調整などに関する業務を管掌する。

 

そこで1791年の辛亥通共により、国役は存続させ一般市廛の専売権は不許可とし、設立30年未満の市廛は廃止した。しかし六矣廛(ユギジョン)に限ってはその特権が維持され1894年まで続いた。六矣廛は国役の中でも清への朝貢品や宮廷内の調度品をそろえたりする役を担っていた。(いまでいう“御用達”のお店)その6つの品を扱う店は①絹(線廛:ソンジョン)②綿布(綿布廛:ミョンポジョン)③綿紬(綿紬廛:ミョンジュジョン)④紙(紙廛:ジジョン)⑤苧布(苧布廛:チョポジョン)⑥鮮魚(.內外魚物廛:ネウェオムルジョン)だった。

その後、1794年に行われた“甲寅通共”(カビントンゴン)によって六矣廛以外の市廛が持っていた禁乱廛権(独占的取り扱いを禁止する権利)の特権の廃止、自由商人と手工業者たちも都場内で自由に商いを行うことができるようになった。この商業の発達した時期に活躍したのが“金萬徳”(キム・マンドク)という女性商人で、この時代には珍しく女性として高い評価を得ている。

 



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