韓国ドラマ「トンイ」では張禧嬪氏チャンヒビンの生涯にも注目!

ドラマ「トンイ」の主人公は後の淑嬪崔氏スクビンチェ(イ・サンの祖父・英祖の母)ですが、一方で韓国の三大悪女といわれた張禧嬪氏チャンヒビン(本名:チャン・オクチョン)の生涯もドラマにしています。

この張禧嬪氏は見方によって人物の見方がかわってしまうなかなか興味深い人物です。またこれだけ後世に話題を残したというのもある意味すごいかもしれません。

では、実際の張禧嬪氏はどんな人だったのでしょうか。

 

 

両班でない出身で王妃にまでなったのはチャンヒビンただひとり

本名を張玉貞チャン・オクチョン(ドラマ「トンイ」でも最初はそう呼ばれています。)といい中人の階級の出身です。中人(両班の下の階級)出身で王妃にまでなったのは後にも先にもチャンヒビン氏ひとりだけです。

また“禧嬪(ヒビン)”という称号は側室の階級の中でも最上の正一品の“嬪ピン”の中でも特に寵愛を受けたことをあらわす称号です。

 

もともと粛宗の曾祖母(荘烈王后:南人派)の宮女として宮中にあがったといわれ、そこから粛宗の側室となりました。

しかし粛宗のあまりの熱の入れように明聖大妃(粛宗の生母)から一時宮中から追い出されてしまいます。

またそのころ特に宮中では官僚の党争が激しく西人vs南人)その均衡を保つために粛宗は政治改革に尽力していました。

その一貫として後宮の均衡を保つのも王の役目でした。明聖大妃とそのころの第二王妃仁顕王后は西人派でその勢力に脅威を感じていた粛宗の政治的配慮もあったのかもしれません。

 

いずれにせよ明聖大妃が亡くなると西人派勢力が下降気味となり、再び宮中へと戻ってきます。

一説にはこの時に南人派の後押しがあったといわれています。

そして後ろ盾のなくなった第二王妃を廃位することに成功します。

仁顕王妃は体が弱く世継ぎがいなかったこともあり、明聖大妃の後ろ盾がなくなったのは立場が不利となり、さらには1688年張禧嬪氏が男の子を生んだ(後の景宗)ことで、張氏の立場は世子(セジャ:世継ぎ)の母親として地位はゆるぎないものとなります。

普通は側室でも十分(本来、中人は王妃にはなれない。)ですが、権力欲を南人派に利用され王妃にまでのぼりつめます。それが“悪女”といわれる所以です。

 

チャンヒビンの没落

しかし張氏の外戚や南人派の勢力拡大に脅威を感じた粛宗は次第に張氏から心が離れていきます。

そこにあらわれたのが「トンイ」でお馴染みの淑嬪崔氏スクビンチェです。彼女は第二王妃仁顕王后のムスリ(雑用係)と言われていますので西人派よりの人物です。

そのころ都では王妃廃位とチャンヒビン氏をモデルにした「謝氏南征記サシナムジョンギ」という小説が出回ります。このころには仁顕王妃を廃位にしたことへの後悔の念が粛宗にあらわれ、復位の話しが持ち上がると世子を守りたい張氏は阻止しようと仁顕王妃に呪いをかけたと言われています。

世子(世継ぎ)は正統な王妃から生まれた男の子が優先されるため、仁顕王妃が復位した場合その可能性がでてくるのを恐れたためです。

 

その後仁顕王妃は復位し張氏は側室に降格となります。しかしその6年後1701年仁顕王妃は子供を生むことなく、持病の心臓病によって亡くなってしまいます。

この時、西人派と側室だった淑嬪崔氏スクビンチェの「仁顕王妃は張禧嬪氏チャンヒビンに呪いをかけられて亡くなった」との証言により、張禧嬪氏は大罪として腸薬(毒を飲んで死ぬ死罪。)が下され生涯をとじます。

 

悪女だったのか権力争いの犠牲になったのかは意見の分かれるところですが、そのしたたかな生き方は当時の後宮の女性として必要だったのかもしれません。

 

☆張禧嬪氏チャンヒビンを題材にしたドラマ☆

○1988年MBC『朝鮮王朝500年』

○1995年SBS『妖婦 張禧嬪チャン・ヒビン』:チョン・ソンギョン

○2003年KBS『張禧嬪チャン・ヒビン』:キム・ヘス

○2010年MBC『トンイ』:イ・ソヨン

○2013年SBS『張玉貞(チョン・オクチョン)、愛に生きる』:キム・テヒ

 

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